糸徳財団の歴史

弊財団代表理事である小渕隆司の先祖である「小渕志ち」の生涯をなぞりながら、糸徳財団の歴史を紐解きます。

玉糸製糸の技術で豊橋市民に今でも慕われる女性実業家

「玉糸製糸創始者 」

小渕 志ち


岡谷市にある岡谷蚕糸博物館 シルクファクトおかやの社長様が志ちについて調べてくださっております。


小渕しち

小渕 志ち

どんなことをした人か?

 今まで商品価値のなかった「くず繭」の玉糸から生糸を 取り出す技術をたゆまぬ努力で成し遂げた。更に、愛知県豊橋市に夫(中島伊勢松)と共に工員1,000人の製糸工場を 建設した「豊橋市の恩人」と言われる女性実業家。

小渕志ちの少女時代

 1847年(弘化4年)、小渕志ちは、上野国勢多郡石井村(現・前橋市富士見町石井)の百姓、徳右衛門の次女として生まれました。志ちは、活発で物分かりの良い子であった。父親は、大酒飲みで稼いだ金すべてが酒代となり大変貧しい暮らしでした。

 

 母は貧しくとも志ちを寺小屋に入れましたが、一日行ったきりで通わなくなります。志ちは、勉強が嫌ではありませんでしたが、今すぐには役立たない。それより母を手伝うことがもっと大事だと思ったからでした。

 

 志ちが7歳の時、母について近所の蚕の世話を手伝い、繭から糸を取る仕事の手助けをして育ちます。10歳になると母に教えられて繭から糸をとることを覚えます。志ちは、引いた糸を前橋の市場に持っていき、金に換えてくず繭を買ってくるという生活が続きました。志ちは、自分が暮らしの役に立っているということが満足でした。

小渕志ちの娘時代

 15歳の志ちは、前橋市駒ヶ沢町の製糸家葛屋三次に雇われ、住み込み工女となりました。1年契約で給金は2両でした。志ちは、持ち前の負けず嫌いの気性と家で覚えた座繰りの経験を活かして数十人の工女の中でも抜群の成績を上げます。そこで繰糸(繭から生糸をつくること)の技術に習熟し模範工女となったばかりでなく主人の繭の仕入れ方、糸を売るときの駆け引きなども見て覚えて、商売の基本を覚えたのです。

 

 葛屋で1年間勤めたあと、志ちは、工場主に優秀な技術を惜しまれましたが退職を願い出ます。主人は大変惜しんで次の契約で給金を4両にすると引き止めますが、志ちの決心は固く家に戻ります。そして工場で貯えた金をもとに、繭を買って家の庭に小さな工場を建て座繰りを始めます。しかし、素人のため思いもよらぬ損害を受けてしまいます。

小渕しち

小渕志ちの結婚生活

 1864年(文久4年)、志ちは、17歳で齋藤米吉を婿養子にとり結婚します。しかし、米吉は百姓仕事が嫌いで狩猟を好み、せっかく志ちが、繰糸で稼いだお金を酒代やばくち代に使ってしまうありさまで貧しい生活が続きました。更に米吉は酒癖が悪く志ちにたびたび暴力をはたらき、志ちは、生傷が絶えませんでした。

 

 1867年(慶応3年)、志ちは、3年間に4度も流産し、5度目で盲目の娘よねを出産します。

 

 1879年(明治12年)、志ちが、32歳の時に米吉との生活に耐えられず繭と糸の取引で知り合いになった糸繭商人の中島伊勢松(41歳)とお伊勢参りを口実に家を出て東海道を目指しました。伊勢松の家はかなりの資産家で妻と子供も数人がいました。志ちは伊勢松の博識さ、誠実さ、親切心に頼り、伊勢松は志ちの座繰りの技術と働きぶりと前向きな生き方に共感していました。

 

 この時から中島伊勢松は伊勢松と改め、これからは徳次郎と名乗ることを決めました。しかし、二人が村から逃げ出して、あとをくらましていることが村の人々に知れ渡ると「駆け落ち」という噂が飛び交いました。そして小渕家と中島家ともひどく傷ついたのです。

小渕しち

小渕志ちの田原町時代

 二人は東海道に進み、遠州(静岡県)の黒滝村中瀬で10日ほど蚕の手伝いをして過ごします。その後、渥美半島の田原町に蚕があると聞き、町に着くと宿屋に泊まります。宿の主人が二人は上州(群馬県)出身と聞いて製糸のことを質問すると、とても詳しいので驚き、養蚕や製糸の人たちを呼び、話を聞くことにしました。

 

 その中の一人、山本周作は尾張屋に案内し、二人はそこに滞在することになりました。志ちは、近くの繭を買い込んで工女4人を雇い、座繰りをやって見せました。しばらくして田原町にコレラが流行すると、志ちたちは、よそ者ということで立ち退きに迫られてこの地を離れます。流行がおさまり戻ろうとしたところ二川町からぜひ来てほしいと説得されます。

小渕志ちの二川町(豊橋)時代

 山本の繭の仲介人3人の世話で工女10人を雇い、志ちは、自分で糸の操り方を工女に教えながら製糸業を始めました。ところがこの地方は養蚕を初めてまだ日が浅く、とれる繭の生産量もすくないため原料不足になりました。せっかく座繰の技術を覚えた工女の引き抜きも多く起こります。こうした様々な困難や周囲から羨ましく思われ、恨み、ねたまれても志ちは、決してめげることなく粘り強く続けました。

無籍者として警察に捕らえられる

 1880年(明治13年)に山本喜一の裏長屋を借り工場を移します。工女も25人になり、徐々に規模が大きくなっていきました。

 

 ところが4年後に二川地方にコレラが大流行し大勢の死者が出ました。役所は戸籍を持たない無籍者を厳しく取り締まったので、志ちと徳次郎は、大岩寺の住職二村洞恩に頼んで偽の戸籍を作ってもらいました。しかし、このことが発覚し警察に捕らえられ岡崎の監獄に入れられてしまいました。

 

 徳次郎は面会に行くと志ちは、逆に励まされ、糸引きに打ち込みます。徳次郎がこれからは原料の繭が不足することを心配し、安い玉繭から糸を引けないか提案します。玉繭とは二匹以上の蚕が一緒になって作った繭で引いた糸を玉糸といい、太くて節が多く、値段も安く節糸織りや銘仙に用いられました。

小渕しち

玉糸製糸軌道に乗る

 しかし、玉繭から糸を引くのは大変難しく、まだ誰も成功した人はいません。しかし、志ちは、粘り強く、座繰器を改良し、繭の煮方を変えたりさまざまな工夫をし、ついに成功します。

 

 ところが徳次郎は岡崎の刑務所でなくなります。志ちは、深く悲しみましたが立ち直ります。その後、後藤次郎蔵を雇いやがて支配人とし、志ちの相談者、保護者として大いに力を尽くします。

 

 盲目の娘よねは前橋の鍼灸按摩(しんきゅうあんま)の内弟子となり技術を覚え20歳になっていました。志ちが41歳の時、よねは宿屋に呼ばれて客室に入りました。お客は相当な身分の人のようですが、よねはせっせと揉んでいましたが何も話しかけてきません。すると「まだ分らんのか」と独り言のように話しかけてきたのです。よねは幼児の時に聞きずっと心の奥にしまい込んできた懐かしい母の声だと気づきました。こうして母と子が再会したのです。志ちは、自分で織った着物とお金一両を土産に渡します。

徳次郎の遺志を継ぐ

 志ちは、工場の名前を徳次郎の徳の一字を入れて「糸徳製糸工場」とつけました。1892年(明治25年)、玉糸製糸業から玉糸専業に転換し、志ちは、事業に成功していきます。ある時、身内の人が志ちに「金を少し分けておいてください」と言うと、「お金をくれ?もらったお金が何になる。金はどこにも舞っている。欲しかったら捕まえなさい」と答えたと言います。

義一を養子とする

 志ちは、63歳の時に姉の子が嫁いだ後藤儀平の長男、義一を自分の後継者と決め8歳の時に引き取り養子とします。小渕義一はやがて経営者となり、志ちの経営方針を引き継ぎます。工場では小学校を出たばかりの女工たちは寄宿舎に入り、読み書き、そろばんや裁縫、生け花、作法を教えられ気持ちよく働くのでした。

 

 やがて工場の規模が大きくなると富岡製糸場を手本にします。寄宿舎の一部に幼稚園を開園し、工女が学べるように講堂を建てました。これは当時としてはとても珍しいことでした。

 

 志ちは、年をとってもせっせと働きました。工場を見回り、暇を見つけては日向で大きな針箱をそばに置き、丸い木の台で古くなった針を一本一本金槌で叩き直していました。物を大事にし、すべてのものを使う生き方が表れていました。

小渕しち

報われる日

 1913年(大正2年)、11月15日名古屋とその周辺で陸軍による特別大演習が行われ、天皇陛下が一週間滞在して「大元帥」として統監(統合監修)を行い、身分が高い人たちも大勢滞在しました。名古屋離宮で天皇陛下の拝謁を受け、大演習関係者をねぎらう宴会が行われました。その席に志ちは、招かれました。これは女性としては初めてのことでした。知事が強力に推薦したためと言われています。記念写真にはトヨタ自動車の創始者である豊田佐吉の隣に、志ちが座っています。

 

 1923年(大正12年)、76歳となった志ちは、病で倒れ、体が不自由になってしまいます。それでもよく工場を見回って工女たちを励ましました。工場が休みのある日、工女たちが火鉢を囲んでいたところに志ちが、やってきて、とぎれとぎれに色々な話をしました。工女の一人が「お婆様おいくつですか」と尋ねると手を振りながら微笑んで「まだ78歳だ。若い。これからだ」と話しました。この元気な言葉に工女たちみんなが驚かされたということです。

 

 1929年(昭和4年)3月16日、志ちは、82歳の生涯を終えます。その時の様子は”満面の笑みをたたえ眠るように成仏した”と言われています。告別式は糸徳工場の運動場広場で関係者や志ちを慕う大勢の市民たちにより、しめやかにそして盛大に行われたといいます。

小渕しち

小渕志ちの顕彰活動

 やがて小渕義一は1929年(昭和4年)、三遠、玉糸製造同業組合の理事長、組合長を務め、最後は全国玉糸組合長も務めこの業界の発展に貢献しました。

 

 1930年(昭和5年)、小渕志ちを敬い慕う人々の間から志ちの功績を後世に残そうという銅像を岩屋山麓に建てることになりました。太平洋戦争中に弾丸の材料とするため銅像は供出されましたが台座は住民の手によって守られました。

 

 1981年(昭和61年)に市民の多くの募金により高さ150センチの銅像が再建されました。銅像は岩屋山麓にあり、大岩寺(だいがんじ)の墓地に志ちと徳次郎が眠っています。

 

小渕しち

 2009年(平成21年)6月、愛知県芸術劇場小ホールで小渕志ちの生涯を描いた「ひとすじの糸」を市民の手により5回上演されました。

 

 2015年(平成27年)1月には市民団体「ひとすじの糸」が設立され、2月には富士見商工会の視察団が豊橋市長と会を訪れ、9月には「ひとすじの会」一行が志ちの故郷である前橋市を訪れ市役所と富士見商工会、富岡製糸を訪問しました。こうして市民レベルの交流が始まっています。

富士見商工会主催   偉人12人の会場
富士見商工会主催 偉人12人の会場

製糸場から幼稚園へ

 志ちは、これまでの功績はみな郷土の人々の援助・協力の結果であった、その恩に報いたいと悲願を抱いていおりました。

 1940年(昭和15年)、志ちの意思を継いだ小渕義一は、この地の町民の要望が最も高かった、幼稚園を設立いたしました。糸徳の宿舎の一部を利用し、糸徳幼稚園としました。

 

 1947年 (昭和22年)、名称を二川幼稚園と変更し、1957年(昭和32年) 小渕義一の亡き後は、糸徳として続けていた製糸業は廃業し、幼稚園の経営に専念することといたしました。幼稚園は、養子辰丙が義一の後を継ぎ、現在は小渕益男(辰丙、しづの子)が理事長を務めております。

現在へ繋ぐもの 糸徳公益財団

 1950年(昭和25年)辰丙は、志ちの郷土の人々の恩に報いたいとの悲願を形にするべく、公益財団を設立いたしました。それは、二川幼稚園を経営すると共に育英事業として寮舎を設立、学生を援護し教育の復興を支援することを目的としました。未来を担う人材の支援を志したのです。

 

 こうして、小渕志ちの想いを継いでできたのが、現在の糸徳財団なのです。